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唐紅 -宝物-

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面影


「…どうしたの、蓮様?」
 それが一瞬唐突な問いに思えたのは、やはりほんの僅かな時間ではあるが意識が追憶に沈んでいたからだろう。刹那の空白の後に、蓮は隣に座る幼い少女の不思議そうな視線を意識する。
 いけない。少し上の空になっていただろうか。
 はっきりと、目の前の少女に意識を戻す。そのことが、逆に今までその心を占めていた記憶を意識させる気がした。
 どうにも頭を離れ切らないその面影に、苦笑が漏れる。
「ん…、ちょっと思い出してね…」
「何を?」
 我ながら要領を得ないと思う青年の返答に、きょとんと見返す瞳。そんな年齢相応の子供らしい仕草の一つひとつが、何故だか今日は彼の遠い記憶を刺激する。
 暦の上ではとっくに秋になっているとはいえ、未だしつこく残るこの夏の気配のせいだろうか。

 軽井沢でのロケも終わり、例年の如く残暑厳しい中、再びスタジオでの撮影が続く日々。夕刻、蓮がドラマ撮影に向かう前に事務所に立ち寄ったところ、偶然だが社長の愛孫であるマリアと久し振りに会った。スタジオ入りにはまだ時間に余裕があったので、こうしてロビーで社と二人、はしゃぐマリアを挟んで座り、自販機で買った飲み物を手に三人で雑談するに至っている。
 会話の中心は主にマリアで、彼女の学校での出来事や、父親とのメールのやり取りのことなどを、本当に楽しそうに話していた。
 聞くところによると、マリアの父親に対する心のしこりを取り除いたのは、あの最上キョーコだったという。その話を聞いたとき、彼女の過去を多少なりとも知っている蓮としては、少し意外な気もした。だが、彼女の性格を思うと納得できる気もする。
 『親』に対して、およそ良い感情など持たないであろう彼女。けれど同時に、けして幸せとは言えない生い立ちでありながら、それでも素直に他者の心を思い遣りその幸せを願えるだけの優しさを持っている。
 泣いて笑って、色んな感情を小さな体一杯に表現しながら、精一杯生きていた幼い少女。十年前、夏の日に出会った彼女は、成長して変わりながらも確かに今もあの時の面影を残したまま、精一杯に生きている。
 マリアの話を聞き、蓮自身も自分の仕事関係の話などを多少話しながらも、意識が幾分『彼女』とその思い出へと向いていたのだろう。不意に、マリアに問い掛けられたのだった。

「蓮様? 何か大事なことでも?」
 曖昧な言葉しか返さなかった蓮に対し、マリアは心配そうな目を向ける。幼い彼女に気を遣わせてしまったことに気付いた蓮は、慌てて否定した。
「ああ、いや。そういうことじゃないよ」
 ごめんね、と微笑むと少女も「よかった」と、にっこりと笑顔を返してきた。
「それで、何を思い出していたの?」
 先程までの心配顔から一転、今度は好奇心一杯に聞いてくるマリアに、蓮は苦笑しながらも正直に答えた。
「もう、十年くらい前になるかな…。俺が子供の頃に出会った女の子がね、ちょうどマリアちゃんと同じくらいの歳だったかな、って」
 なんだかちょっと、思い出してしまってね…、と感慨まじりに告げてから、ふと、この言い方は幼くとも大人びたところのある目の前の小さなレディには些か失礼だったか、と思う。
「…蓮様」
 果たして、マリアは少々難しい顔をして彼の名を呼んだ。
「なんだい? マリアちゃん」
 自分との会話の最中に他のことを考えていたことに機嫌を損ねたかと思いきや、少女は思いの外神妙な顔をして尋ねてきた。
「その『女の子』って、もしかして、初恋の人だったりする?」
 今度は蓮がきょとんとする番だった。
「…どうしてそう思うの?」
 至極純粋な疑問を、そのまま口にする。質問に質問で返してしまった、ということに蓮が気付いたのは、既に言葉が口から出てしまってからだった。何故だか妙に動揺している自分自身にやや戸惑っている彼に、マリアはまたしても彼にとっては予想外のことを言った。
「蓮様、今、すっごく優しい顔をしてたもの」
 少女の言葉に、青年は思いもかけないことを言われたかのような表情をして、自らの頬に触れる。二、三回眼をしばたくその姿は、彼にしてはいつになく無防備なものだった。
「初恋、ね…」
 無意識に、マリアの言葉を反芻する。
 ───ああ、そうか…。
 一瞬は戸惑いとともに受け止めたその言葉は、けれどすぐに彼が胸の内に抱える想いに馴染んでいった。
 初恋。
 その言葉を、一体十年前の小さな彼女に向けても良いものなのか、それとも今の彼女に向けるべきなのか、それは定かではない。ただ、初恋という言葉を聞いて思い浮かぶ面影、そして感情の流れて行く先、それが彼女以外ではあり得ないということだけは、蓮にもはっきりと分かっていた。
「そうかも、しれないな…」
「───あ、ほら。その顔」
 胸に込み上げる想いを噛み締めるように呟くと、すぐさまマリアに件の「すっごく優しい顔」とやらを指摘された。どうやら、無意識に想いが表情に出ていたらしい。
「…そんなに違う?」
「大違いよ。ほら、向こうでも通りすがりの『オバサン』が、こっちを見て顔を赤くしているわ」
 マリアに言われて蓮がロビーの玄関側に目をやると、どう見てもまだ若い女性職員がこちらを見ているのと目が合った。その瞬間、彼女は既に赤く染まっていた頬をさらに真っ赤に上気させたかと思うと、慌てて目を逸らした。
 その随分と大げさに思える反応に一旦首を傾げたあと、そういえば、と蓮はある会話を思い出す。結構前に社にも似たようなことを指摘されたことがあった。確か、キョーコに向ける自分の眼差しのことを「その辺の女の子が一瞬でとろけそうな、いつくしむ様な目」とかなんとか言われた覚えがある。
 蓮自身、自らの恋心を自覚してからは、そういった無意識的な感情の表れについてもかなり意識して気をつけてきたつもりではあったが、まだまだ甘かったらしい。芸能人としても個人としても、もう少し気をつけねば、と自省する。
 そこまで考えてからふと顔を上げた青年は、すぐ傍で当の自分のマネージャーが何やら変な顔をしてこちらを見ていることに気付いた。
 どうしたのか、と思うと同時に、ここまでの流れからまた何か突っ込まれるのかと、蓮は嫌な予感を覚える。彼に声を掛けるか否か迷っていると、その思考を少女の声が遮った。
「ねえ、蓮様。その『女の子』って、どんな方だったの?」
「うん?」
 目線を下げると、なにやら好奇心たっぷりにキラキラとした瞳が見上げているのに出会う。先程から微妙に予想外の反応ばかりを返すマリアに、蓮は内心首を傾げつつも素直に答えることにした。
「そうだね…。素直で、表情豊かで、嘘がつけなくて。まだ小さいのにやたら我慢強くって、すごく一途で。いつでも何に対しても一所懸命…、そんな子だったよ。俺が傍にいられたのはほんの少しの時間だったけど、その間にもよく泣いて、でもそれ以上によく笑って。色々と苦労してて辛いことも抱えてたのに、他人のことにも素直に喜んだり悲しんだりできて…人のために涙を流せる、そんな女の子」
「ふぅん。素敵な人だったのね」
「そうだね」
 これには心から相槌を打った。蓮が話すつもりがない以上マリアは知る由もないが、マリアにとっても『彼女』は間違いなく『素敵な人』だろう、と蓮は思う。実際の年齢よりもかなり大人びていて周囲の人間に素直に甘えることをあまりしない彼女が、至極素直に懐いて姉とまで慕っている、そのことだけでもマリアにとっての彼女が如何に特別な存在であるかが分かる。
 それも当然か、と蓮は考える。かつて、マリアの身近にいる人間の中でマリアに対し最も影響力を持っていたのは、社長曰く、他ならぬ蓮であった。だが、こと父親との確執に関しては、マリアはその蓮の言葉さえ信じようとしなかった。それを、キョーコはたったの一日で解決してしまったというのだ。マリアの心の傷を抉った劇を通して、逆にその痛みの奥にある父親への愛情とそれまで頑なに否定し続けてきた期待を素直に認めさせ、さらには父親のマリアに対する愛情の存在をマリアに気付かせたというキョーコ。そんなことが出来たのは、間違いなくキョーコにマリアの抱えてきた想いに対する確かな理解があったからだ。他の誰にも正確には理解してもらえなかった苦しみを、わかって受け止めてくれたキョーコへのマリアの信頼は揺るぎないものだろう。
 ただ、と蓮は思う。話を聞いたその時は、あまり深くも考えなかったことだが、今になって思う。マリアの心の傷を癒そうとその想いを受け止めたとき、もしかするとキョーコは同時に自分自身の心の傷を抉っていたのではないだろうか、と。他人の痛みを受け止めながら、自分の痛みはひとりで抱え込んで、何処かで独りきりであの『石』を前に泣いていたのではないだろうか。
 そう思うと、蓮は堪らない気持ちになる。
 マリアから最初に話を聞いたときは、特に何も思わなかった。むしろ、キョーコが俳優養成所に入ったと聞き、役者を目指しているらしいということに不快感を覚えたくらいだった。そのことすら、今では蓮の心に小さな棘のように突き刺さる。一体あの頃の自分は、彼女の何を見ていたのだろう。
「じゃあ、その『女の子』が蓮様の理想のタイプ?」
 また思考が想い人へと向かっていた蓮は、マリアの明るい声での問い掛けに現実に引き戻された。
「え? …ああ、うん。そうだね」
 意識を会話へと戻した蓮は、マリアの問いを肯定した。
 正直なところ、「理想」だとか「タイプ」だとか、そんなものは後付けでしかない。今の蓮にとっては最上キョーコその人こそが所謂そういった条件そのものと言ってよかった。人間変われば変わるものだ、と蓮は自身の意識の変わりぶりを思って苦笑する。
 何とは無しに俯いた蓮は、その拍子にふと右腕にした時計を目で確認した。余裕を持ってスタジオ入りするには、移動を始めるべき時間が迫っている。
「ああ、そろそろ時間だ。ごめんね、マリアちゃん。俺達、移動しないと」
 そう言いながら、蓮は腰を浮かせた。荷物は席に置き、空になったコーヒーの紙コップだけを手に立ち上がると、社が手にしていたやはり空のコップを、仕草だけで断ってひょいと取る。
「コレ、捨ててきますね。───はい、マリアちゃんのも」
「ありがとう、蓮様」
 マリアからもコップを受け取って、蓮は少し離れた場所にあるゴミ箱まで歩いていった。

「…ねえ、マリアちゃん。ひとつ訊いてもいい?」
「なぁに?」
 すれ違う人々と軽く挨拶を交わしつつ遠ざかっていく蓮の背中をちらりと見やってから、社は自分の右に座っているマリアに問い掛けた。
「蓮の初恋の相手の話を聞いてるのに、何でそんなに機嫌いいの? 気になったりしないワケ?」
 先程の会話の間、横で聞きながらずっと気になっていたことのひとつがそれだった。マリアの『蓮様』好きは事務所でも有名だし、特に蓮のマネージャーである社は、マリアの蓮に対する執着ぶりや大人顔負けの───そして、ある意味子供ならではの───害虫駆除活動の実情をすぐそばでずっと見てきたのであり、その想いの強さは人一倍よく知っている。そんな社としても、今の会話でのマリアの反応は予想外としか言いようがなかった。
 だが、そんな社の疑問に、まだ小学校低学年の少女はあっさりと答えた。
「だって、相手の人は今蓮様の傍にはいないのよ? それに、蓮様が小さい頃、なんて嫉妬したって始まらないじゃない。だって、私まだ生まれてもいない頃の話なんだもの」
「…そういうもの?」
「そういうものなの!」
 明るくキッパリ、言い切られ、社は沈黙させられた。
 ───女の子って分からない…。
 それが、社の率直な感想だった。普段からあれだけ周りを威嚇してでも異性を近づけさせまいとしている相手に対して、そこだけそんなにあっさりと割り切れてしまうものなのか。いっそ不思議である。
 首を捻る社にふふっと微笑んだマリアは、しかし、視線を外すと今度は明るい表情を一転させ、翳りを帯びた愁い顔で呟いた。
「それにね…」
 幼いながらに、どきりとさせられるほど切ない表情で、マリアは言う。
「蓮様、寂しそうな表情をしてたもの」
「…え…」
 マリアの視線の先を辿ると、ちょうど蓮が三人分のコップを捨てているところだった。その背中を見やってから社がマリアへと視線を戻すと、彼女は俯いていた。何かを懸命にこらえるように膝の上で拳を握りしめるその姿に、社は言葉を失う。
「…一緒にいたいと思う人と、逢えなくなるのは、本当に哀しいことよ」
 ぽつり、と零された言葉には、痛みと哀しみが滲んでいた。
「嫉妬なんて、そんな感情で踏み込んでいい想いじゃ、ないと思うの」
 それはけして、ただの子供の背伸びした台詞などではありえなかった。
 蓮は、別に詳しい事情を語ったわけではない。けれど、その言葉の端々から、この感受性の豊かな子供は微かな痛みや寂しさといったものを敏感に感じ取ったのだろう。
 しばしの沈黙の後、ふう、と社はひとつ息をつく。そして、隣に座る小さなレディの純粋な優しさと精一杯の強がりに敬意を表しつつ、しみじみと呟いた。
「マリアちゃんは、ほんとに蓮のことが大好きなんだね…」
 頭でも撫でてあげたい気分だったが、それでは子供扱いすることになる気がして、やめておいた。今目の前にいる少女は充分に『大人』だと思えたし、社はそのことを尊重したかった。

 もう一度会話が途絶えたところで、蓮が二人のところへと戻ってきた。
「じゃあ行きましょうか、社さん…って、どうかしましたか?」
 社とマリアの間に流れる空気に違和感を覚えたのだろう、訝しげな顔をする蓮に、二人は顔を見合わせると明るく笑った。先程までの暗い空気はその笑顔に一掃されて、蓮はその正体を掴むことは出来なかった。
「いや、別に。じゃ、行こうか」
「蓮様。私、駐車場までお見送りするわ!」
「ありがとう、マリアちゃん」
 めいめい荷物を手にロビーを後にする。地下一階の駐車場に降りるためにエレベーターへと向かう道すがら、マリアは蓮に話し掛けた。
「蓮様」
「なんだい、マリアちゃん」
 抜きん出て背の高い蓮とまだ子供のマリアとでは、立っているとその身長差も馬鹿にならない。マリアが蓮の顔を見るためには思い切り見上げねばならないし、蓮にしてもマリアの表情を読むには腰を屈めて覗き込むぐらいの必要がある。
 そんなことを意識しているのかいないのか、マリアはあえて蓮の顔を見上げることはせずに問い掛ける。
「もし、また、その『女の子』に会えたら、蓮様はまたその人のことを好きになると思う?」
 明るい声での質問に蓮がマリアを見下ろしても、見えるのは前を向いたままの彼女の旋毛でその表情を窺うことは出来ず、蓮はその声の調子からマリアの感情を読むしかなかった。
「…そうだね。彼女の、本質が変わっていなかったとしたら…、俺はきっと、好きになるだろうな…」
 言葉を選びつつ、けれど嘘をつくことはせず。蓮は本心からの答えをマリアに返した。
「…そっか」
「…うん…」
 それから地下駐車場の入り口に着くまで、二人がお互いに顔を見ることは、結局なかった。そして、そんな二人を社はただ黙って見守っていた。
 駐車スペースへの入り口に着いたところで、蓮は立ち止まり、少し屈んでマリアの顔を覗き込み話し掛けた。
「ここまでで良いよ。駐車場内は危ないからね、一応。───お見送りありがとう、マリアちゃん」
「どういたしまして。───ね、蓮様」
 マリアは明るくにっこりと笑う。だから、蓮もまた優しく微笑み返した。
「なに?」
 問い返せば、笑顔の中にも真剣な眼差しを返された。
「私、そんな風に蓮様に『素敵』だと思ってもらえるようなレディになるわ」
「…マリアちゃんは、今でも充分に素敵な子だと思うよ?」
 ずるい大人の逃げの言葉など、この少女には通用しない。それは蓮にも分かっていたが、彼に返せる答えはこれ以外にないことも、また確かだった。そして、聡い子供はそのすべてを理解した上で、微笑んだ。
「ありがとう、蓮様。でもね、私はまだまだだから」
 まだまだだから───でも、未来には、きっと。
 それが、マリアの答えだった。
 幼いながらに手強い少女に、大人たちは苦笑する。
「ばいばい、マリアちゃん。今日は沢山話せて楽しかったよ」
「私も! お仕事頑張ってね、蓮様。社さんも」
「またね、マリアちゃん」
 笑顔で手を振るマリアに見送られ、蓮と社は車に乗り込み事務所を後にした。

 運転席の蓮と助手席の社の二人きりの車内は、他人に聞かれたくない話をするには持って来いである。富士テレビへと向かう道すがら、社は早速蓮に話し掛けた。
「さりげなく予防線張ったよな、お前。やっぱりアレか? 大切な人ができての心境の変化?」
 ───ほら来た。
 先程の会話の流れからして、この男が何も言わないはずがない。俳優とそのマネージャーとしてそれなりに長い付き合いを重ねてきた蓮にしてみれば、それは自明のことであった。正直、どうしてこの人はこうお節介なのか、と思わなくもない。ただ、マリアの前で余計なことを言うようなことはしない、そんな彼の良識には蓮も感謝していた。
 が、それとこれとは話が別である。
「何の話をしているんです? 社さん」
 しれっとポーカーフェイスで躱そうとする蓮。が、社も然る者である。ちなみに、この場合の『社』は今現在の蓮の心境的には『敵』と読む。
「とぼけるなよ。今までマリアちゃんの『蓮様大好き』にもちゃんと付き合ってきてたお前が、あの子に向かって自分の初恋話をするなんて、何か考えを変えるようなことがあったとしか思えないだろ」
「別に、そんな大げさな話じゃないでしょう…」
 相変わらず、担当俳優のそうした感情の動きには妙に鋭いマネージャーである。本人すら明確には意識していなかったような点まで正確に指摘してくるその洞察力には、蓮も思わず感心してしまう。
 が、ここはあくまで白を切り通すのが、今のところの蓮の方針であった。そのことは、社も重々承知しているはずだ。その上でこのマネージャーは蓮をつつくのだ。理由は───多分、本人が楽しいから。少なくとも、こういうやり取りの度に蓮の頭に浮かぶ言葉は、『玩具』とか『娯楽』、『遊ばれる』といったものであった。
 一方の社も、相変わらずの秘密主義な担当俳優に内心溜息をついていた。これでもし、蓮の言動がすべて無意識で実はキョーコへの想いを自覚すらしていないのだとしたら、それは最早笑い話である。いや、『芸能界一いい男』と言われる男・敦賀蓮の実態が『芸能界一鈍い男』だなどというのは、洒落にもならないかもしれないが。これまでの蓮の行動を見てきた社としては、それ以前のキョーコへの気持ち自体を否定することも、勿論論外。むしろ、最近では社に対しては隠すことをやめているとしか思えない言動多数。だというのに、この若造は明確な問いに対しては何故だか未だにあくまでしらばくれようとする。
 社は、今まで一貫して蓮のキョーコへの想いを応援こそすれ、反対するようなことは言ったこともしたこともない。それなのに、何故ここまで頑なに隠されるのか。それが正直わからない、と社は思う。
 ただ、キョーコへの気持ちを自覚していないということはあり得ないにしても、蓮なら今日の会話の成り行きもほとんど無意識だったという可能性も考えられなくはない、とも社は思う。ただ、その根底にキョーコへの想いがあるという点については、たとえ当人に否定されようと譲る気はなかった。
 しかし、マリアに対して予防線を張るにしても、現在の具体的な話を出すわけでもなく、あくまで過去の話という辺り、妙に抜け目のないことだと思う。もっとも、あの強かな少女は、そこを逆手にとって逆に未来に想いを繋いで見せたわけであるが。
 何にせよ、相変わらず掴めない、謎なヤツだ、と社は密かに嘆息した。まあ、別段そのことがイヤだというわけでもないのだが、水臭いと思うくらいは許されるだろう。などと勝手に自分で自分に許可を出して、社は最近癖になりつつある『娯楽』を再開する。
 その娯楽の名を、『蓮いじり』と言う。…このことは、本人には絶対に秘密である。
「けどなー、俺、蓮が十年も前にちゃんと初恋してるなんて思わなかったよ」
 わざとらしいくらいにしみじみと言ってやる。それはもう、相手の気に障るように。
「…何ですか、それは…」
 計算通り、反応を返してきた相手に、にやにやとタチの悪い笑みを浮かべながら社は答える。
「んー、だってお前、そんな顔して実は物凄い恋愛音痴だし」
「…恋愛音痴…」
 嫌そうな顔をされようとも、ことこの件に関して社は考えを曲げる気は毛頭ないため、不服そうな呟きも綺麗に無視したまま言葉を続ける。
「てっきり、そんな純な恋愛感情なんて、今回が初めてなのかとばかり思ってたってコト」
「なんか、色々と勝手な上に酷い言われようですね…」
 渋面になりつつも、しかしあくまでそつなく無難な言葉を返す蓮。ハンドルを切りながら、器用なことである。
 しかし、この程度で娯楽の時間を終える気もない社であった。
「でもさ~蓮、いいのか~?」
「何がですか、社さん。ついでに、その笑い方やめて下さい。気持ち悪いですよ」
 横目で助手席を見やった蓮の、かなり失礼な指摘にも、社はまったく頓着しなかった。蓮曰く『気持ち悪い』笑みもそのままに、先の会話の中でも二番目に突っ込みたかった部分に切り込む。
「初恋の君に再会出来たら、きっとまた好きになる、なんて言っちゃってさ~? じゃあお前、その彼女が現れたら、今好きな子のことは好きじゃなくなるのかぁ? それとも、まさか二股? お兄ちゃん、そんなことは許さないからな~?」
 誰が『お兄ちゃん』ですか、という蓮の溜息はこれまた綺麗に無視された。前方を見て運転を続ける蓮にも、社の表情が変わっていないことは助手席から漂ってくる雰囲気ではっきりと感じ取れた。
 まったく、と苦笑しながらあくまでも穏やかに、蓮は答える。
「仮定の話ですよ、社さん。十年も前に数日間遊んだだけの名前しか知らない女の子に再会する可能性なんて、一体どのくらいの確率だと思います?」
 その答えに、社は訝しげな顔をした。
「名前しか知らないって、お前、家も知らないの?」
 一緒に遊んでたんだろ? と社は不思議そうに尋ねる。
「知りませんよ。町ぐらいの範囲でならある程度見当がつきますけど。それに、十年も経てば引っ越してる可能性だって高いでしょう」
「それはそうだけど…」
「おまけに、俺も随分変わったし、きっと会えたとしてもお互い気付きませんよ」
 あっさりと現実的に可能性を切り捨てる蓮に、それでも社は食い下がった。
「いや、名前だけでも知ってるのなら気付くことくらいあるだろ」
「呼んでたのは下の名前だけだし、それだけじゃよくある名前ですから。大して限定も出来ませんよ。俺の方も、苗字とか教えた覚え、ありませんし」
 にべもなく答える蓮。その様子に肩透かしを喰らった気分なのか、社は何やら気落ちした雰囲気を漂わせ始めた。
「まあ、確かに…それじゃあ分からない、かもなぁ…」
「第一、彼女は当時六歳かそこらだったんですよ? 俺のこと、覚えてるかどうかも分からないじゃないですか」
「ああ、うん。まあな」
 何故だか本気で声が暗い、と不思議に思った蓮がちらりと横を見やると、声音を裏切らない表情がそこにあった。
「…なに残念そうな顔してるんですか、社さん」
 いつもの野次馬精神…もとい女子高生思考回路からかと思いきや、意外にも社は本気で残念そうな、寂しそうな、複雑な表情をしていた。
「いや、お前があんまり懐かしそうな顔してたからさ。やっぱり会いたいんじゃないかって思って。なのに、相手は覚えてもいないかも知れないなんて、それってなんかちょっと寂しくないか?」
 いや、そりゃ会えちゃったらそれはそれで心配というか何というか、なんだけどさ…、とぶつぶつと矛盾したことを呟きながら百面相する社倖一、二十五歳、男。
 その言葉と表情に、蓮は社の人の良さを改めて実感した気分だった。自分のことでもないのに、至極あっさりと相手の立場に感情移入して情緒豊かな反応を返してくるあたり、社はある意味キョーコと同じ種類の人間だと蓮は思う。自分がとりたてて言うほど薄情とも思わないが、こういう風に素直に他人を思い遣れる彼らは紛れもなくお人好しの善男善女である。そして、そんな彼らにこうして心からの思い遣りを貰えるということは、本当に幸せなことなのだろう。
 そう思うと自然と、くすりと笑みが零れていた。
「いいえ? 寂しくなんかないですよ」
 それは、掛け値なしの本音だった。
「俺は、ちゃんと覚えてますから。あの日のことも、あの子のことも。俺が忘れさえしなければ、きっとそれで良いんです」
 ───そう、たとえ彼女が俺に気付かなくても。俺が知っていれば、それで。
 そう心の中だけで呟いて、蓮は微笑む。
 また会えるなんて思いもしない、相手が自分を覚えているかどうかすら分からない。それで当たり前のはずだったのに、少女は再び彼の前に現れて、そして彼を覚えていると言った。彼女は青年へと成長し姿を変えた彼に気付くことはなかったけれど、同じ想い出を共有する二人が再び出逢えた、きっとそれだけでもう充分、奇跡のような話だったのだと蓮は思う。
 そして蓮は少女に気付き、その奇跡に気付くことが出来た。
 今は、それだけで充分───今はまだ、それで。
 たとえ彼女が知らなくても、優しい想い出は間違いなく二人を結んでいる。自然とそう信じられるから。
 だから今は、その奇跡がいつかもっと大きな奇跡へと繋がることを心の奥では願いながらも、蓮はただ穏やかに彼女を見守ろうと思っていた。
 あの日の面影を、成長した彼女の姿に重ねながら。
 愛しさへと成長した想いを秘めた、優しい瞳で。
 もっとも、遅ればせながら彼女への想いを自覚した今でも、彼の恋愛音痴が克服されたという訳では勿論ない。よって蓮は相変わらず、自身の想いが表情や態度に表れてしまっていることに対しての自覚をしばしば忘れる。特に、気安い人間を相手にしているようなときには。
 そしてそれは今回も例に漏れず、沈黙した自分の横顔を窺う視線の存在もうっかり忘れてしまっていた。
「それにしても…」
 運転を続けながらも密かに胸の内の想いに浸っていた蓮は、社の声で我に返った。気が付けば、最前のあの笑いが復活している気配がする。イヤな予感とともに横へと目を走らせると、やはり予想通りの表情がそこにあった。
「なんですか社さん、にやにやと薄気味悪い…」
 さり気なく失礼な蓮の言葉にも社はやはりまったく頓着することなく、運転席の蓮を見やりながら、ニマニマとある意味確かに不気味な笑みを浮かべつつ話を続ける。
「いやぁ? ちょっと気になったんだけどさぁ。お前の『初恋の相手』って、実はキョーコちゃんに似てるんじゃないの?」
「…は?」
 似てるも何も、本人なのだが。しかし、何も知らないはずの社の口から、何故キョーコの名が出てくるのか分からず、蓮は一瞬動揺を見せた。そんな蓮の反応に、社はそのチェシャ猫の如き笑みをますます深めた。
「素直で表情豊かで正直者、やたらと我慢強くて一途でいつも何にでも一所懸命。『理想のタイプ』なんだって? ふぅ~ん、なるほどねぇ…」
 その言葉で、社の言いたいことは蓮にも大体分かった。こっそりと深く呼吸して動揺を静め、態勢を立て直す。
「『理想のタイプ』って、あんなの単なる話の流れじゃないですか」
 キョーコのことで社にからかわれるのもいい加減慣れてきた蓮は、至極素っ気無く答えた。
「勘繰り過ぎですよ。別に深い意味はありませんから」
 言葉とともにやや呆れたような感じの混じる苦笑を零す。その姿は自然そのものだったが、担当俳優とそれなりの付き合いを重ねてきたマネージャーはそう簡単には引き下がろうとしなかった。
「そうかぁ? むしろお前、話しながらキョーコちゃんとその女の子を重ねてたんじゃないのか?」
 当たらずとも遠からず、と言うべきか。図星とまでいかないまでも妙に鋭く核心に近い所を突いてくる敏腕マネージャーに、蓮は深々と溜息をつきたいような気分になった。別にそんなところにまで敏くなくて良いのに、とつくづく思う。
「…だから社さん、俺と最上さんをやたらとそういう風に結びつけたがるのは…」
「はいはい、そんなんじゃないって言うんだろ。いつもの如く。でもなぁ、蓮」
「…なんですか」
 意味深に言葉を区切られ、渋々蓮は聞き返す。はたして、言葉の続きは相変わらずタチの悪いとしか言いようのない笑みとともに返された。
「否定したいんなら、表情までちゃんとコントロールしておかないと意味がないぞぉ?」
「…それこそ意味が分からないんですが」
「自覚がないのか、お前。役者のくせに」
 何とも不毛な攻防である。
「だからなんなんですか、社さん」
 ただでさえ、車の運転という一定の集中を要する作業を会話と平行して続けている運転者にとって、車内での会話は些か不利である。おまけに、確実に存在する歳の差。ある意味これは卑怯だろう、と蓮は少しばかり捨て鉢な気分になりつつ、社にはっきりした言葉を言うよう促した。
 が、人間投げ遣りになるとロクなことがないものである。すぐに蓮は、うけあわずに適当に流しておけばよかったと後悔することになった。
「マリアちゃんの言ってたお前の『すっごく優しい顔』ってヤツ。あれ、お前がキョーコちゃんに向けるのとまるっきり同じ表情だったぞ」
 咄嗟に片手で口元を押さえて───それが決定的な失敗だったと蓮が気付いたのは、五秒後、自分のマネージャーの顔に浮かんだ『ほらな』と言わんばかりの人の悪い笑みを認めた瞬間であった。
 ───ああ、この人はコレを一番突っ込みたかったんだな…。
 事務所から富士テレビまでの道程、延々続いた会話の終わりになって、蓮はようやくそのことを悟った。目的地はもう、すぐそこであった。

 自分の未熟さは蓮自身が一番よく分かっている。人を愛するということに対して、未だに自分で自分に枷を課したままの状態では、結局は身動きの取りようもないと言うことも。だからこそ、この想いは誰にも悟られることなく隠しておきたいと思う。
 だが、自らの恋心に振り回され、実際に相対する彼女は勿論のこと、ときとして心に浮かぶ彼女の面影にすら心を揺らし、周囲にさえそれと知れるほどに表情を動かしてしまっている辺り、最早手遅れということなのかもしれない、という気もする。
 そんなこんなで、遅い初恋を経験し思春期真っ只中な男・敦賀蓮の葛藤は続いている。とりあえず、あれやこれやの問答の果てに、彼が自分のマネージャーに対しての秘密主義を緩和したのか否かは、定かではない。





 瞳を閉じれば、浮かぶ面影。
 今も昔も、この心を動かすもの。






透歌様のお話を拝読すると、勿体無いと感じます。何が勿体無いのか。それはPCの画面で読む事が、です。本当に活字でじっくりと読み耽りたいと思う、丁寧で緻密な文章です!

原作や登場人物に対する思い入れが伝わってくる、優しい視点で書かれていて、前半の蓮とマリアの会話から生じる郷愁や切なさに対し、後半は社と蓮のほのぼのとした(そして思わずニヤリとさせられる)やり取りがクッションとなっていて、読後感も柔らかです。

透歌様、素敵なお話をありがとうございました!

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