敦賀さんには好きな人がいるなんて、随分前に知っていたのに。
食欲の壊れたこの人の食事事情を理由に、思いがけず2人で過ごす時間が。
幸せで苦しくて。
触れたくて逃げたくて。
そうして甘えて、気づかないフリをした。
彼の大切にはなれない自分を。
「最上さん、どうしたの?」
名前を呼ばれるだけで嬉しいなんて。
これ以上そばにいたら・・・。
だから敦賀さん、ごめんなさい。
「もうここへは来れないので、ご飯を作るのは今日で最後です。あ、でも不摂生せずにちゃんと食べてくださいね」
「来れないって、どうして?」
少し慌てたように見える敦賀さんがなんだか可愛くて、泣きたくなった。
「好きな人が出来たんです」
人の目が少し気になった。
でもそれは、いつものようにラブミー部活動中のドピンクつなぎのせいだと思っていた。
「はぁ~疲れたねぇ。ロビーの掃除ったって広いから・・・ねぇ、モー子さん?」
部室に戻り、着替えを済ませる。今日の活動はロビーの清掃。いつかのように社長から無理難題を課せられた訳ではないので、気楽に臨めるはずだったのに、どうにも視線が気になって。
「も、モー子さぁーん・・・?」
その視線の主。穴が開くほど、という訳ではないにしろ、ジトーッと見つめられていると何か責められているようで、その雰囲気に思わず一歩下がる。
すると、ようやく愛しのモー子さんが口を開いてくれた。
「あんた・・・私に何か言う事ない?」
「へ??」
予想もしていなかった言葉に、私は全身で「?」マークを飛ばす。
「あんたね・・・!自称でも、し、親友なら何か一言あってもいいん」
「はい、すとーーーっぷ!」
相変わらず話の通じない私に、モー子さんの沸点の低い怒りが爆発しようとするのを、天宮さんが制した。
モー子さんの口を塞いで、更に振り向きざま私にノートを手渡す鮮やかさ。
咄嗟に受け取ってしまったこのノートは、普段天宮さんが溢れ出る毒を注いでるものじゃ・・・?
「こういうのは、自分から言ってくれるのを待たないと。ね、京子さん・・・何か鬱憤が溜まったらこれを使って?」
「え?え?」
やっぱり話の見えない私の戸惑いなんてお構いなしに、「男の不満はそれに書いてね」と謎の言葉を言い残して天宮さんはモー子さんを引きずって行ってしまった。
あまりにも唐突に1人ぼっちになった私は、手の中にある天宮さん譲りの「毒ノート」に目を落とす。
「何なのぉ・・・?」
とりあえず放置なんかしたら呪われそうなので、仕方なく持って帰ろうと鞄をテーブルに置くと、テレビのリモコンの上に重なり、誤って電源が入ってしまった。
独特の電子音を感じ、急いで消そうとリモコンを向けた所で明るくなる画面。
途端に映し出されるのは、誰もが羨むトップ俳優だった。
「あ・・・・・・」
数日前、嘘をついて別れて以降会っていない。
酷く軋む心を感じながら、それでも直接会っているわけではない安堵で、私は知らず油断していた。
情報番組でのVTRということは、何かの番宣かしらと思っていると、レポーターが興奮気味にマイクを向けて質問をしている所だった。
『好きな女性がいるという噂は本当ですか!?』
『本当ですよ』
『では、そのお相手は同じ事務所の京子さんというのは・・・』
『ええ。俺の一番大切な女性ですよ』
『お付き合いはされてるんですよね!?いつからですか!?』
最後の問い掛けには答えず、万人を魅了する笑顔を残して敦賀さんは画面からフェードアウトしていった。
「・・・・・・・・・・・え?」
彼はなんと言っただろう。
自分では処理出来ない情報が脳から削除されようとした時、ご丁寧にもコメンテーターの女性が「事実上の交際宣言ですね」だとか「実は何ヶ月も前から付き合ってたらしいですよ」だとか、根も葉もないことを、さもありなんと語っていた。
私は一気に全身の血が抜けていくような、そんな脱力から体を支えられずに、イスに崩れ落ちた。
ガタリとした無機質な音を、どこか他人事のように聞きながら目の前が真っ白になる。
走馬灯のように・・・とは状況が違うけれど、今日1日の、周囲による不可解な言動を思い出し、そのわけがようやく分かった。
でも、どうして?
私の預かり知らない所でこんな話に?
込み上げるのは何とも表現しがたい感情で、怒りなのか悲しみなのか情けないのか分からない。
自分の力ではどうしようもない自体が起こっていることの混乱と、真意は分からないまでも彼の口から自分が「大切」だと言われたことに、不覚にも嬉しいと感じている自分もいて・・・無性に腹立たしくなってきた。
ぐるぐると渦巻く何かを吐き出したくて、元凶とも言える敦賀さんに思わず鉾先を向ける。
「敦賀さんのっ・・・ばかばかばかばかばかーーーっ!」
ここにはいない相手だからこそ、普段なら言えない大それた雑言を吐くことが出来たのだけど。
「君にとって、俺は余程の大ばか者みたいだね」
今この世で一番聞きたくない声が、部屋の空気を一掃した。
直前にスピーカーごしで聞こえていた低く心地よい声が、クリアな音声になって耳に届いている。
本当に心臓が止まりそうなくらい、ドクンと大きく跳ね上がった鼓動。
声の主によって引き起こされる不整脈のせいなのか、冷たい汗が背中を這う。
「まぁ、自覚はしてるよ。君に対してだけだけど」
私は動かしたくない首を無理やり動かし、声のした方を確認する。
やっぱりそれは敦賀さんで、感情の見えない瞳でこちらを見据えていた。
ドアにもたれかかっている所をみると、今来たばかりなのかもしれない。
「なんで・・・ここに・・・」
自分が思ったよりも小さな声しか出ないことに驚いた。
すると敦賀さんは、問いかけに答えるでもなく、そんなこと意に介さないように歩みを進めて、私の隣に座ってきた。
思いがけず訪れた至近距離に怯みそうになる自分を叱咤して、怒りを滲ませながら語気を強める。
「どうして・・・あんなこと言ったんですかっ」
近付かないように、したのに。これじゃあ何のために嘘をついたのか分からない。
「あんなことって・・・?」
「わ、私を大切な女性だなんて・・・からかうにも程があります!公共の電波を使ってまで意地悪しなくても」
「俺は至って真面目だよ」
「そんな笑顔に騙されませんからね!?」
似非紳士全開の笑顔を向けられ、カチンときた私は思ったまま言い放った。
けど・・・。
「ああ、そう・・・」
敦賀さんの雰囲気が、変わる。
「折角、抑えてたんだけどな。君に酷いことをしないように」
クツリと笑みを零す綺麗な人は、まろやかに、射抜くように、凍える視線を私にくれた。
「でも、もう無理」
「つる・・・がさん?」
「今すぐ、君をどうにかしていい?」
そう言うなり、敦賀さんは流れるように優雅な動作で私の手をとって、あろうことか甲に唇を寄せてきた。
「ひゃぁぁぁぁ!?」
咄嗟に引き抜こうとした手は解放を許されず、敦賀さんに強く捕らえらえている。
「・・・!!なんで・・・私には何もしないんじゃなかったんですか?」
私みたいな子供には手を出さないって。
いつか言われた言葉を思い出して、再び心に針が刺さったように痛んだ。
「・・・約束を違えたのは君だろう?」
静かに、だから私のせいだと責めるように敦賀さんは言う。
約束って・・・
―――――生涯この純潔を命をかけて守りぬくって!
あれのこと・・・?
「わ、私はそんな覚えは・・・」
ない。あるわけない。純潔なんて失ってませんと抗議しようとした所で、これ以上の弁解は不可能となった。
「俺は体だけのことを言ってるんじゃないよ。君の心すら」
言葉を切って、自嘲するように呟きながら、殊更強く手を握られる。
「他の誰かに傾けて欲しくはなかったんだ」
「痛っ・・・」
コワイ。
コワイ。
誰だろうこの人は。
逃げ出したくて、椅子を倒しながら立ち上がろうとすると、不安定な態勢から簡単にテーブルに縫い付けられてしまった。
両手首を抑える敦賀さんの手の熱さと、背中が感じるヒンヤリしたテーブルの固さと冷たさ。
「教えて?君が惹かれた男のこと」
敦賀さんごしに見上げる天井が、ぼんやり滲む。
嫌だと大声をあげることも出来ないのはどうしてだろう。
「何もかも、忘れさせてあげるから・・・ねぇ、キョーコちゃん?」
違うと、思った。
唐突に、弾かれたように。
「・・・無理ですよ」
目を閉じると、溜まっていた想いが溢れて、目尻からつたう温かいモノと一緒に流れ出す。
「わたしの・・・好きな人は・・・私をいつも「最上さん」って呼んでくれます」
ピクリと、敦賀さんの手が反応した。
「自分にも周りにも厳しくて、無遅刻キングで、演技は完璧で」
今までの事を思い出しながら、想いの丈を込める。
「優しくて・・・時々意地悪だけど、いつも相談にのってもらって、頼りになって・・・なのにご飯はちゃんと食べなくて・・・」
上手く喋れない自分がもどかしくてしょうがない。
「これ以上好きにならないように、自分から離れた・・・忘れたくても忘れられない先輩なんですから」
伝えるはずの無かった言葉は、取り返せない言霊となって部屋に響いた。
目を開けると、ゆるゆると力の抜けた敦賀さんが私の上から退いて、ギシリとイスに崩れる。
「・・・お・・・れ・・・・・・?」
茫然と、今までの激しさが嘘のように虚空を見つめる敦賀さん。
氷が溶けていくように、張り詰めていた空気が息を吹き返す。
数拍の沈黙。
そこで、ハッと我に返ったように敦賀さんは倒れたままの私を抱き起こしてくれた。
「ご、ごめん!・・・最上さん・・・その・・・痛い所、は・・・?」
本気で狼狽える敦賀さんが可笑しくて、意趣返しに私はわざと深刻な表情を作ってみる。
「手首が痛いです・・・」
「ごめん・・・・・・俺・・・」
俯いて、消え入りそうな声で、痛いと言った手首を覆ってくれる敦賀さん。
私の方がテーブルに腰掛けているため、いつもと逆の高さ故か、そっと自由になった手で敦賀さんの頭をナデナ
デしていた。
「ふふ・・・敦賀さんが敦賀さんなら、私はもう大丈夫ですから」
私が笑うと、敦賀さんもようやく申し訳なさそうに顔をあげてくれた。
「・・・でも・・・どうして・・・好きな人が出来たなんて?」
敦賀さんは、改めてこの間の私の発言の真意を聞いてきた。自分の気持ちを勢いとはいえ粗方吐露してしまった今、何も隠しだてすることもないので、私は素直にそれに応じる。
「だって・・・望みのない気持ちなんて敦賀さんにとっても迷惑でしょうし・・・私がお家にお邪魔することで敦賀さんの恋の邪魔になってるんじゃないかって思って」
「・・・・ん?」
「え?」
何かおかしいことを言ったのか、心底不思議そうに敦賀さんは私の顔をマジマジと見てきた。
「俺が好きなのは最上さんなのに・・・?」
「・・・ええぇぇぇ!?」
「どうしてこの流れで気付かないかな・・・」
呆れたように溜息をつきながら項垂れる敦賀さん。私にとっては青天の霹靂どころの話ではない。
「だって、敦賀さん好きな人がいるって・・・」
「自分のことだとは微塵も思わなかったみたいだね・・・というか、誰にそんな話聞いたの?」
「う・・・風の噂で・・・」
坊の時、貴方から聞きました、なんて口が裂けても言えなかった。
「そんなどこの誰が発端とも分からない話よりも、俺を信じて欲しかったな。結構態度に現してたつもりなんだけど」
と言われても、心当たりが全くない私は首を傾げるしかなく、見兼ねた敦賀さんが丁寧に説明してくれた。
「俺が自宅なんてプライベートな場所に、心を許した相手以外入れると思う?」
確かに言われてみればそうだけど。
「でも敦賀さん・・・。私、今まで幾度となくお邪魔させて頂きましたが・・・いつも食事だけで、好きな女性にする何か特別なことをしてくれたわけじゃないじゃないですか?」
胸を張って言った私。
だけど、どうもそれが敦賀さんのスイッチだったみたい。
「・・・よく、分かった」
「へ?」
「もっと分かりやすく、俺がどれだけ君を愛しているか、躰に叩き込んであげるから」
「い、いえ、やっぱり結構で・・・」
とても愛の言葉とは思えない物騒な気配を感じて、丁重にお断りしようとするも、それが叶うことはなかった。
「逃がさないよ?」
自分の発言の迂闊さに後悔するのはこの後すぐなんだけど。
モー子さん、天宮さん。
あのノートを活用する事はなさそう・・・かな?